WaTが駆け抜けた時代 ~大江戸線ガム物語~

 

さささんのこの記事がすごく好きなんです。


長野博Jr.時代 (1) 1986年・入所と初仕事 - over and over

 

私は無謀にもこの記事に触発されて、WaTの年表を作ってみたいとずっと思っていました。思っていたんですが、いかんせん私は年表を書けるほどの資料を持ち合わせていません。私がWaTファンになったのはちょうど彼らがメジャーデビューしたとき(2005年11月)で、もうあれから9年もの月日が流れたことになるのですが、この9年間ずっと彼らのことが好きだったくせに、絶望するほどにうちには過去の映像も雑誌も残っていないのです。私が録画技術を身につけたのは2010年頃。2010年以前に買っていた彼らが載っていた雑誌はなぜかほとんど何処かに消えました。(管理がずさんな小学生)WaTの年表は2010年以前で9割完成する仕様なので、資料がほぼないという現実。それでも書きたいという衝動に、この2ヶ月間、悶々としていました。ええ。2ヶ月間。

 

でもやっぱり書きたくてしょうがなくて、WaTが駆け抜けたあの時代を世間に忘れてほしくなくて、もう本当にどうしようもなくWaTが好きで、キーボードを叩いています。

手持ちの資料だけでどうにかしよう。 

強行突破です。年表なんて大それたものにはなりませんたぶん。(資料がねぇから)WaTが駆け抜けた時代をざっくり記録として残しておきたいのです。自分のためにも。そんなやつが書いた記事だということはどうか念頭に置いてください。

 

 

 

ウエンツ瑛士小池徹平の出会い~大江戸線ガム物語~ 

2人の出会いは2002年。ウエンツ瑛士、16歳。小池徹平、16歳。ともに高校2年生になる年です。

徹平ちゃんは15歳で第14回ジュノンスーパーボーイコンテストでグランプリを受賞し、16歳の春に単身上京することになります。

ウエンツさんは4歳でモデルデビュー。1995年にはNHKの人気子供番組 『天才てれびくん』で、てれび戦士として5年間レギュラー出演。第46回NHK紅白歌合戦森高千里のバックダンサーとして出演もしています。このちょうど10年後に、小池さんと2人で、バックダンサーとしてではなく歌う側として紅白に出場することになるんですけど、それはもう少し後で…。

ウエンツさんは「同じ事務所になる同い年の子が東京に出てくる。友達が一人もいない。音楽も好きだから、友だちになれば」と(おそらく)事務所から言われ、2人は出会いの場をセッティングされます。こうして、小池徹平の東京での友達第一号はウエンツ瑛士となるのです。

初対面の場は麻布十番の餃子屋さん。徹平、徹平のお母さん、瑛士、マネージャーの4人。

徹平ちゃんは英語の練習をしてから行ったと言っています。なにそれかわいい。

 

お互いの初対面での印象

徹平「ハローって言おうとしたら、こんばんはウエンツ瑛士ですって言われて、英語練習した意味なかったじゃん!って」「まぁ、白い。蛍光灯ぐらい光ってた」

瑛士「ジュノングランプリ獲得もそうだし、最多の事務所が徹平獲得のために手を上げたっていう、今までで最多の記録を持ってて、大物ルーキーだと思って。みんなが手を上げて、ウチが取ったーーー!っていう感じで来たから、これが芸能界で活躍するやつなんだと思って」

 

最初は全く喋れず仲良くなれなかった2人。徹平ちゃんのお母さんとずっと喋っていた瑛士。徹平ちゃんは全力で人見知りをしたらしく、全く喋らなかったそう。せっかく友達作る場を設けてもらったのに…!と思うけれども、16歳なんて多感な時期に急に「はい、お友達になりましょうね」って言われてそう簡単に打ち解けられるものではないよね。そりゃそうだ。

しかし、徹平ちゃんはこのときのことを振り返って、「ウエンツのことはすぐいいやつだと思った」と言っています。

餃子を食べた帰り、大江戸線のエスカレーターを降りている途中に、ウエンツが「はい」とガムをくれた。餃子食べたからかな…仲良くなるきっかけをくれたのかな…といろんな思いがこもったであろうそのガムを食べて、「こいつめっちゃええやつやな」と思った徹平ちゃんこれが大江戸線ガム物語です。ちなみにウエンツさんは徹平ちゃんからこの話を聞いて、「口臭かっただけじゃないの?」と言い放っていますが。「いいようにとってくれた」って。ウエンツン。(ツンモードの瑛士のこと)(今初めて使った)

 

 

ストリートライブ

音楽が好き、同い年、同じ事務所、という3つの共通点だけで友達になった彼らは、2002年5月3日のゴールデンウィークから2人でストリートライブを始めます。初対面の餃子屋から半年も経っていません。餃子屋が何月何日だったのかがわからないので明確には言えませんが、2ヶ月後とかそれくらいだった可能性もあります。

この数ヶ月でなにがそこまで2人の仲を発展させたのかはわかりませんが(だって資料がねぇから)、徹平ちゃんはこのとき東京での友達が本当にいなかった、と言っているので、事務所のセッティングでもなんでも友達ができたことが心の拠り所になったのではないかと思います。

しかし、このゴールデンウィークの一週間、お客さんは1人もいなかった。彼らの原点であるストリートライブは、ものすごく静かな幕開けとなります。

 

当時のマネージャー「あまりに客が集まらず可哀想なので自分の娘に客のフリをして聴かせた」

瑛士「マネージャーと娘さん、顔がそっくりだからすぐわかった。急にチビッコ来るんですもん、お客さんに。小学生になってないぐらいの子ですよ。胸が苦しくなりました」

悲しすぎるエピソード。

 

毎週日曜日の原宿駅周辺。お客さんは2~3人。このままではだめだと思った2人は、ストリートライブを始めてからおよそ2ヶ月半後の2002年7月29日~8月2日、ギターとベースの練習のために5泊6日の箱根合宿を行います。(2ndアルバム『WaT Collection』初回特典DVDに収録)

これまでカバー曲ばかりでしたが、この合宿で楽曲作りを行います。1stアルバム、2ndアルバムのどちらにも収録されている『はだか』という曲の前身はこのときの合宿で作られたものではないかと思います。他にもきっと、たくさんのWaTの曲がこの合宿で生まれたんだと思う。

練習中も練習以外でも、それこそご飯もお風呂もずっと一緒だった2人。

合宿を終えた2人は、また日曜日の原宿駅周辺に戻り、手書きのチラシを自ら配り、ストリートライブの告知を行って、これまで以上に積極的にストリートライブ活動を行います。

2ndアルバムに収録されている『僕らの居場所』もこの頃からある楽曲です。「重たい荷物をそこにおろしてください」「僕らはいつもここで待ってるから」「悩みや苦しみ 僕らに打ち明けてください」「すべて伝えるのなんて難しいけど 歌ってる」ストリートライブに来てくれた、目の前にいるお客さんに向けた歌です。

 

ストリートライブを行い始めて2年、お客さんが徐々に増え始めます。

徹平ちゃんがギターの弦をよく切るので、それを直している間に1人で喋らなきゃいけなくなる瑛士。当時を振り返って、「ウエンツのトークが上手くなったのは僕のおかげ」と言い放つ徹平ちゃん。カップルの痴話喧嘩。

 

 

良薬口に苦しやで

単身上京してきて慣れない環境でしょっちゅう体調を崩していた徹平ちゃん。普段50kg台な体重が40kg台まで落ち、母親から栄養を書いた表をFAXでもらった。

瑛士「体調心配して(徹平の)お母さんが出てきたんですよ、大阪から。とにかく、身体にいいものをって、美味しくない健康ジュースみたいなものを出してきて、俺も飲んで、まぁ(徹平のお母さんとは)仲も良いんで、うわー!なんだこれーー!みたいに言ったんですよ。もう本当にこれだけは覚えてる。別になんもおもしろくないよ。すっごい覚えてるんですけど、そのときに徹平のお母さんが『良薬口に苦しやで~』って言ったのをすっごい覚えてるの。忘れられない」

何度も何度も、本当にこのエピソードはよく聞いた。瑛ちゃん本人も「別におもしろくないんだけど」って言いながら絶対いつもこの話をするから、どれほど記憶に残ってんだよ!と思う。良薬口に苦しやで。

 

 

インディーズデビュー前、謎のWaT3人時代

なぜそうなったのか経緯がわからない、覚えていないと言う2人。そんなもんこっちはなおさらわかんねーよ!という、謎のWaT3人時代です。謎。マジで謎。

瑛士「きっと僕らにパンチがなかったんでしょうね。その方(WaT3人目)はめちゃくちゃ歌が上手くて、年上だったのかな。1、2個年上。これは…僕の見解なんですけど…少しコッチの気があった人だったような…。雰囲気がちょっと可愛らしい感じの…」

謎すぎるけれども衝撃的すぎる、WaT3人時代(3人目はオネェだった疑惑)です。オネェ疑惑を持ちながら一緒にお風呂に入ったこともある瑛士は「異常に隠しながら入った」と言っています。だから何がどうなってそうなったんだよ!!

3人目のWaTが何きっかけで加入し、何きっかけで脱退したのかわからないので、これについてはこれ以上掘り下げられません。でも気になりすぎるだろ。

 

 

2004年2月『卒業TIME』でインディーズデビュー

2003年11月のジュノンスーパーボーイコンテストの会場で、WaTというユニット名でCDデビューすることを発表。「Wentz and Teppei」で「WaT」。他にもユニット名候補はあったが、これが一番しっくりきたらしい。ちなみにaのみ小文字で表記するのが正式です。WaTファンは忠犬ハチ公精神なので基本的に穏やかですが、時たま過激派なので(※私の主観です)誤表記にはわりとイラッとする人が多いかもしれません。「WAT」でも「wat」でも「Wat」でもない。余談だが「ウェンツ」でもない。

2003年12月14日に最後のストリートライブを行います。

2人が「WaT」として組むことになったのはデビューが決まってからと言います。デビューの日(2004年2月18日)は2人ともテンションめちゃくちゃ上がって、夜中12時に2人で鬼ごっこをしていたらしい。ちょっとよく意味がわからない。

2人ともまだ高校生。ちょうど高校卒業の年だから、卒業をテーマに曲を作ったと言います。

2004年2月20日、池袋サンシャインシティ噴水広場でデビューイベントを行います。5000人のファンが詰めかけ、観客動員数の記録を作ります。

そしてこのデビューイベントの場で、徹平ちゃんはデビューができた喜びではなく、友達ができた嬉しさを号泣しながら話すのです。

徹平「大阪から1人でこっちに出てきて、すごい不安で、親友だった友達とも離れてきたりとか、いろんな思いを、してきたんですけど…。東京で友達できるかなとかすごい不安で、自分で殻とか作ってたんですけど、卒業してから、みんな、腹割って話せる仲になれて、ほんまに友達ってすごい大事やなと思ったんですよ。だから、まだ高校生とか、学生の人は、ほんまに友達を大事にしてほしいなって思うんですよ。そういう思いを、この、卒業TIMEの詞に書きました」

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この7年後、25歳のときに出た番組で、徹平ちゃんはこんな話をしています。

徹平「僕、家族とのあれも、青春時代も、全部ないですもん。修学旅行とかも行ってないですし、卒業式も早退したりとか」

徹平「一時期本当に何も仕事がなかったときがあって。16から18の夏ぐらいまで本当に大変でした。戦隊モノとか映画とかたくさんオーディション受けてるんですよ。全部受からなかった。夜もずっと家に1人でいたりして…学校の友達もあんまり仲良くなれなくて」

徹平ちゃん堀越学園に行っていたとき、同級生には山下智久城田優蒼井優上戸彩がいました。仕事がなく学校は皆勤賞だった徹平ちゃん。華やかな芸能クラスではすぐに友達もできなかった。

徹平「だからもう、本当ひどかったですよ。『何のために東京へ来てるんだ』って毎日マネージャーとかから怒られて、『帰れ、大阪!』とか言われて。『嫌です』って言って。『嫌です』しか言えないじゃないですか。『じゃあどうすんだよ?』『頑張らせてください』『じゃあ何を頑張んだよ?ああ?』とか言われて、『すみません。いっぱい映画観てお芝居、勉強して』『やってんのかよ?実際』とかって。すいません何回言ったか覚えてないです」

徹平「ずっと帰れ帰れ言われて、本当に激やせしたんですよ。ストレスで。そのときに支えてくれたのがWaTだった。毎週日曜日にウエンツと2人でずっとストリートライブやってて、全然お客さんいないんですよ。2~3人とか。『何やってるんだろう』とか言って、2人で」

徹平「ちょいちょいテレビには出てたんで、ストリートでだんだんお客さんが集まってくれるようになって。そうやって俳優業が安定しないときは音楽に支えられて、なんとか精神状態は安定してやってたんです、仕事」

16歳から18歳。芸能界に足を踏み入れたことで、楽しいはずであろう高校時代は徹平ちゃんにとってはとてもじゃないけれど楽しいと言えるものじゃなかった。辛い時にずっとそばにいたのは、東京でできた友達第一号、あの日餃子屋の帰り道にガムをくれた瑛ちゃんでした。

 

2004年5月3日に横浜ベイホールで初めてのWaTライブ『WaT Entertainment Show Act"do"Live Vol.1』を開催。

2004年10月27日にはラフォーレミュージアム六本木にて『WaT Entertainment Show Act"do"Live Vol.2』を開催。

2004年11月には学園祭に多数出演します。

 

 

WaTクビ宣告を受けるウエンツ

たくさんのファンに祝福されたインディーズデビュー後、ギターの練習に身が入らなかった瑛士。なんと事務所からWaTクビ宣告を受けます。4ヶ月の活動休止。その間、徹平ちゃんは1人で音楽活動をしていました。

徹平ちゃんが仕事がなかった時期にマネージャーに大阪に帰れと何度も言われた話もそうだけど、事務所は彼らにはわりと厳しく接してきたのかなと思う。可愛い子には旅をさせよ精神だったのだろうか。

瑛ちゃんは「どうかまたWaTとしてやらせてほしい」と事務所に懇願し、ギターも必死で練習して、2005年6月4、5日に横浜BLITZにて『WaT Entertainment Show Act"do"Live Vol.3』を開催。

復帰後の初ライブで瑛ちゃんは号泣します。

徹平ちゃんにとっても、瑛ちゃんにとっても、なくなってはならない大事な大事な居場所として、WaTはあり続けました。

エンターテイメント(芝居)と音楽の融合のWaT初期の独特なライブは、このインディーズ時代に作り上げられていったものだ思います。

 

大手レコード会社11社による争奪戦の末、ユニバーサルミュージックからのメジャーデビューが決定。2005年8月8日、11月にメジャーデビューすることを発表します。

 

 

2005年11月『僕のキモチ』でメジャーデビュー

補足だが、インディーズデビューのとき、インディーズデビューだと正確に発表されていなかったために、ここでメジャーデビューだと改めて発表されて、「え?デビューしてなかったの?」となったファンも多数いたらしい。

2005年6月の横浜BLITZでのライブが成功したら、メジャーデビューさせてもらえる約束になっていたと言います。

2005年11月2日、デビューシングル『僕のキモチ』をリリース。オリコン初登場2位を記録します。1位は誰だったんだ、って話ですが、修二と彰の『青春アミーゴ』でした。はい。ミリオンセラーと同日発売日でした。

2005年11月3日、インディーズデビューイベントを行った池袋サンシャインシティでメジャーデビューイベントを行います。噴水広場が使われる予定だったが、予想を大きく上回る2万人のファンが詰めかけたため急遽、場所を4階屋上に変更。観客動員数の記録を自ら塗り替えた2人。

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すげー余談だけど、ちょうどこの2005年11月2日、3日にV6が10周年コンサートを国立代々木競技場第一体育館で行っていて、山手線がV6ファンとWaTファンで大混雑だったらしい。


11月5日には大阪の千里セルシー広場、11月6日には名古屋の栄ナディアパークにてデビューイベントを行い、3日間ともに多くのファンが詰めかけた。目に見てわかるほどの熱量を持って、WaTの時代が訪れました。

2人が出会ってからおよそ3年半後です。

 

 

2005年12月31日 デビューから史上最速で紅白初出場

デビューから2ヶ月、デビュー曲の『僕のキモチ』で史上最速で紅白初出場を果たします。第56回NHK紅白歌合戦徹平ちゃんのギターの弦も絶好調に切れています。ちなみに徹平ちゃんジュノンスーパーボーイコンテストでギターを披露したときにも弦が切れています。切れすぎだ。そしてこの紅白初出場では、曲がサビに差し掛かったとたん、カメラがマイクのコードにひっかかり、スタンドマイクが転倒。立て直すまでの数秒間は生歌で歌いました。とんだハプニング大賞

 

 

賞を総なめにした2006年

2006年のWaTはちょっと、いやかなりすごいです。社会現象ものです。

2006年1月には2ndシングル『5センチ。』を発売。

3月には1stアルバム『卒業TIME~僕らのはじまり~』を発売。

同じく3月に東京・大阪・名古屋にて初のライブツアー『WaT Entertainment Show Act"do"Live Vol.4』を開催。

2006年8月に『Hava Rava』発売。

2006 バレーボール世界選手権オフィシャルサポーターに抜擢。

2006年11月に『Ready Go!』発売。

2006年12月に『ボクラノLove Story』発売。

『第43回 2005年度 ゴールデン・アロー賞』新人賞受賞。

『第20回 2005年度 日本ゴールドディスク大賞』 ニュー・アーティスト・オブ・ザ・イヤー受賞。

『第39回 ベストヒット歌謡祭』 最優秀新人賞受賞。

『第39回 日本有線大賞』 特別賞受賞。

『第48回日本レコード大賞』新人賞受賞。

はい。ちょっと落ち着こう。一息じゃ言えないこの量。このへん全部Wikiコピペなんで、あとはもうWikipedia見てくれ。

第57回NHK紅白歌合戦に2年連続出場し、楽屋からステージに移動するエレベーターが急停止し、二人とも閉じ込められるという災難に見舞われています。とんだハプニング大賞だよ。

 

 

WaTの立ち位置の話

徹平ちゃんが以前住んでいた東中野の定食屋、「大盛軒(おおもりけん)」にて、WaTの立ち位置が決まっています。瑛ちゃんが右利き、徹平ちゃんが左利きのため、食事する際に腕が当たらないように、正面から見て左が瑛ちゃん、右が徹平ちゃんという立ち位置が決まりました。ちなみに、CDTVでの収録当日まで徹平ちゃんはこの定食屋を「たいせいけん」と呼んでいたというミラクルキュートっぷりです。

 

 

わりと最近のWaTの話

なんだかもう年代順とか言えなくなってきました。というか衝撃の長さになってきました。すいません。最後に、2011年にA-Studioに徹平ちゃんがゲスト出演したときの話をさせてください。3年前ってわりと最近でもなんでもないけど。WaTの時の流れ方で言えば2011年は「わりと最近」だから許してくれ。

 

瑛ちゃんについて

鶴瓶「こいつはおもろいやつやで」

徹平「いい相方ですよ」

鶴瓶「ウエンツはいい加減、徹平は真面目やと。そのバランスがちょうどええ」

徹平「真逆だと思います。本当に。で、あと、みなさんが思っている性格と逆だと思います。僕のほうが社交的で、あいつのほうが内向的やと思います」

鶴瓶「(ウエンツが)あいつ(徹平)はええやつやと。たしかにええやつやけど、酒飲んだらめんどくさいって。酒飲んだらものすごいハイテンションになるねんて」

「僕の嫌いなもの何か知ってる?♡」と瑛士にもたれかかっていき、瑛士が「知らない」と言うと、「メロンっ♡」と言う徹平。酔うと近い徹平。瑛士が自分で言うと恥ずかしいようなことも言う。「小池の相方は、さいこ~~!♡」と瑛士の手を持って上げさせる。

徹平「なんかね、一番近い同業者といいますか。どっかで甘えちゃうところがある。絡んじゃうんですよね~。この間も絡んだばっかりです。一緒にお酒飲んで」

 

 

 

友達から始まった、大江戸線のガムから始まった、WaTという2人の居場所。

活動がなくても、過去の話しかすることがなくても、“一番近い同業者”であり続ける彼らのファンを私はやめたくないのです。

 

 

 

引用元